棘を抜く

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学校やPTAでは人権がいじめや差別の問題に矮小化されている

 

身の回りから人権を考える80のヒント

身の回りから人権を考える80のヒント

 

 

 
人権は、そんなサクセスストーリーじゃないし、障がい者は人に感動を与えなきゃいけないわけじゃないし、ヤンキーでもなんでもなく学校でも取り立てて目立たなかったけどコツコツと日々の仕事をしている人ってとっても立派やし、人権ってドラマチックじゃなくもっと普通なこと。
じゃあ、人権って何なのか。
人権とは、ジャマをするなってこと。
PTA会長をしていた時に、学校やPTAでは人権がいじめや差別の問題に矮小化されている、そればかりか人権をどこか遠くの可哀想な人の話にしてしまっているように感じ、役員会で「人権ってそうじゃなくって自由ってことなんやけど…
ジャマをするなってことなんやけど」というと、ある役員から「はぁ、そんなこと初めて聴いた。後藤さんだけが言ってるんじゃない」と言われました。僕は、一応、人権擁護を使命にしている弁護士なんですけどね。
なんでこんな誤解が蔓延しているんだろうと教科書を疑いました。
しかし、びっくり、中学校の「公民」の教科書は、人権のことがきちんと正しく記述されていました。中学の公民をきちんと理解すれば、司法試験レベルの憲法の基礎としては十分だと感じる程でした人権侵害としてこんな具体例があげられています。
「私たちの電話が政府によって盗聴されていたり…
手紙やメールが検閲されていたりして、政府にとって都合の悪い話をしただけで逮捕されてしまうような社会」
人権というと、自分とは関係がない「可哀想な人」のことと矮小化して考える方が多いように感じますが、中学校の教科書では人権は私たち一人一人の「自由」のことであり…
それを「国(政府)」が侵害するということがズバリと書いてあります。驚きました。
今日一日を思い浮かべてください。
例えば、映画を観に行ったとしましょう。
映画館にはどうやって行きましたか。自転車、バス、車?どの手段で行こうが勝手ですね。家を出たときに、電柱の影にいた警察官から…
「おいコラどこにいくのか。許可は得ているのか」と呼び止められていませんよね。どこに誰と行こうが勝手です。これらは「移動の自由」です。また、服の胸に名札を付けてなくても咎められないですね。これって「自己決定権」やし「プライバシーの権利」ですね。
映画館に行く時の服装はどうでしたか。
学生服や国が指定した服を着て行かなきゃいけないでしょうか。着る服は自分で選びますね。これは「自己決定権」でもあり「表現の自由」でもあります。
映画館でキスシーンになった時や、今の政権を皮肉るような場面になった時、劇場の後ろに立っていた警察官が「上映中止」って叫んでいませんね。
映画制作者や映画館からすると「表現の自由」だし、私たち観客からすると「知る権利」です。国家がそれを侵害する「検閲」は禁じれれています。映画館の「営業の自由」もありますね。
映画を観た後に映画の感想を友達と語り合ったり、ブログにアップしたり。これは「思想良心の自由」だし…
表現の自由」でもありますね。
日曜日なのでたまには教会に行って牧師さんの話を聴いてみるのは「信教の自由」ですね。
帰宅途中にオリンピック反対のデモに遭遇したので、飛び入り参加して車道の真ん中でシュプレヒコールを叫んだ。これも「思想良心の自由」だし「表現の自由」ですね。
コンビニに寄って買い物をした時、日曜日なのに仕事して大変だなと思ったけど、自分の仕事は日曜日は休み。これって自分でそういう仕事を選ぶってことで「職業選択の自由」だし、日曜日やけど営業していたのはコンビニの「営業の自由」ですね。
人権って私たちが普段意識することなく行使している「自由」のことです。
国家(公務員)は、私たちの自由を制限してはいけません。でも、私たちのジャマをするのは、いつも警察官であり、教師であり、軍人や公務員。内閣総理大臣以下全ての公務員は私たちの自由を奪えるだけの力を持っていて…
権力を握った者はその権力を使ってみたくなるってのは歴史上明らか。だから、憲法は公務員が市民の自由を奪わないように全ての公務員に憲法尊重擁護義務を課しました。
私たちの自由が制限を受けるのは「公共の福祉」に反する場合、つまり他の人権と衝突した場合だけです。
しかもその制限は必要最小限でなければなりません。自分の自由が尊重されるように他人の自由も尊重するってことです。
例えば、上記の例で言うと、デモ隊が車道を歩いていてそれが長い列になっているため、横断歩道を渡れない人がいた場合、デモ隊参加者の「表現の自由」と歩行者の「移動の自由」が…
衝突します。デモは崇高な理念でやってるんだとして、横断を一切認めないのは歩行者に対する人権侵害だし、逆に、通行の邪魔だといってデモ一切を禁止するのはデモ参加者に対する人権侵害です。こういう場合、例えば、デモ隊を数十メートル毎に区切って、その区切りで歩行者を渡らせたり、救急車や…
車椅子や視覚障がい者がいたら一旦デモを中止してでも優先的に通したり。そうやって調整します。これが「公共の福祉」です。
ここで注意しなきゃいけないのは、人権の制約が認められるのは、人権対人権の衝突の場合であって…
組織(国や学校、集団)の利益(国益・公益)と人権が衝突した時に人権を制約することは許されません。
また、フランス人権宣言に「人は生まれながらにして自由である」とあるように、人権は人である以上年齢に関係なく保障され、間違っても、何らかの義務を果たした対価として…
人権(自由)が与えられるんじゃないってこと。
ここまでが人権の基礎。

これを具体的な場面で見ていくと、
例えば学校の校則。
服装の自由、髪型の自由。これは中学生には保障されないのか。もしそう言う教師がいたらフランス革命から勉強やり直しです。中学生であっても当然に人権は保障されます。
「自由なんてのは責任・義務を果たしてから言え」なんて言う教師がいたら「自分は人権のことを勉強したことがありません」「人権なんてクソ喰らえと思っています」と自白しているようなもんです。
じゃあ、靴下の長さを自由にしたところで誰かの人権を侵害しているでしょうか。
具体的には、靴下の長さが校則より1cm短いことで他の生徒の教育を受ける自由の邪魔になっているでしょうか。他の人権と衝突していないのであれば、靴下の長さを規制することは許されないはずです。ましてや、靴下の長さが校則の指定よりも数cm短かいことを理由に教室に入れてもらえないとしたら…
明らかにその生徒の教育を受ける権利を奪っています。これこそ人権侵害です。
このように人権の視点で子どもを取り巻く環境とりわけ学校を見てみると人権侵害だらけで驚かされます。学校に1時間もいると胸が苦しくなるほどです。
でも、先生達は、「ツーブロック禁止」も下着の色指定も…
それが生徒のためになると真剣に考えているようです。子どもを規制の対象と見るから、規制してあげなければ健全な成長はできないと考えるのでしょう。
そうではなく、子どもも権利の主体であり、子どもの自由を尊重することが大事だと考えます。
これは憲法13条と重複しますが、今の学校を見ていると生徒も教師も我慢することばかり強いられており、幸せになること、ハッピーであることが憚られる空気を感じます。だから、もし校則が必要っていうのなら、幸せになっていいんだという当たり前のことを明記しようと思います。
そのような視点で見ると、憲法や法律など社会の規制以上に校則で規制をしなきゃいけない場面って僕は思いつきません。
もしそれでも校則が必要っていうんなら、僕だったら、
「私たちには幸せになる権利がある」
という1条のみとします。